Aug 31, 2011

演繹的?帰納的?

つい先日、デボーションで読んでいた第1、第2コリント人への手紙を終えました。
通読して気付いたことの一つは、パウロはコリントの人へ多くへ具体的な支持やメッセージを送っているのですが、それの教えはいつも帰納的ではなく、演繹的であるということです。

例えば、1コリントの1章。1ー9節までで、自分がキリストにあって何者か、キリストがなにをしてくださったかを説明して、10節で教会の一致を願っています。
1コリント6章の最後、20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と述べています。この一節の中でも、キリストの贖いから、神に栄光を帰るという演繹的説法が用いられています。その後の7章では、個別の罪について書いてますが、それは代価をもって買い取られた人ができないことを述べているのです。
また有名な御霊の働きについての12、13、14章の初めの12章3節で「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということはできません」とあります。この、「聖霊がなければ、キリストのための働きはまずあり得ない」という原点に立った上で、パウロは実践的な指導を与えているように思えます。
また他の有名な箇所、2コリント5:21(「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりとされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」)の後の6章から具体的なクリスチャンとしての振る舞いについて述べています。

Tullian Tchividjian(フロリダのコールリッジ長老教会の牧師)がヤコブを教え始めたとき、メッセージを準備していると、全てが帰納的に見えたそうです。しかし、1章1節の「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」という言葉から、「自分がキリストにあって何者か」→「クリスチャンの行い」という移行が見えたそうです。

キリストを信じ、長い間クリスチャンをしているとこのことを忘れてしまいがちになってしまうのではないでしょうか。ゴスペル『福音』が私たちの原点であるということ。キリストが私の全てになったときから、私たちに必要なもの全てキリストが与えてくれたということを。

現在スポルジョンの"Christ's Glorious Achievements"(キリストの栄光に満ちた業)という本を読んでいますが、1ページ1ページがフレッシュで、心に刺さります。
書いてあることは、知識としては、もう知っていることなのですが、スポルジョンの表現・評価・理解が私自身のゴスペル再認識を促しています。

これに関して、今度は、実際的な体験の面でのシェアもできればと思いますが。こんかいはここまでで。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

No comments:

Post a Comment