Sep 24, 2013

「沈黙の艦隊」から考える憲法9条(その1)

最近、集団的自衛権についての議論が大きく取り合えられています。

と同時に、勿論ですが、憲法9条も取り上げられるわけです。(こっちの議論はもっと大きな扱いでいいと思うが、政府の思惑が感じられるよね。過小報道的な)

私は、この日本にとっての戦争だとか、憲法9条、または自衛権になると、一つの漫画がベンチマークというか、自分にとっての議論の出発点になっています。

それは、かわぐちかいじ の 「沈黙の艦隊」という作品です。


ストーリーは抜きにしますが、かなり深い作品です。
(原子力潜水艦「やまと」とその艦長海江田四郎の話です。)

作品全体が、国家とは、安全保障とは、核兵器とはという多様なテーマについて語っています。
ここでは、作品全体のストーリーは省き、私にとって特に印象的なシーンから、徒然と自分の所感を書いていきます。飽きたらごめんなさい。
(一応の説明はここからWikiにお願いしました。笑)

まずは、「専守防衛」とは何かです。
東京湾を目指すやまとに対して、第三艦隊を東京湾に派遣し、日本との接触をアメリカが阻止しようとする場面です。
やまとと独自に友好条約を結びたい日本は、第2護衛艦隊を派遣します。
しかし、アメリカは飽くまでやまと撃沈作戦を続行します。護衛艦隊はアメリカの攻撃にさらされながらも、飽くまで「専守防衛」に徹し、ミサイルを撃ち落としても打ち返さない姿勢を貫き通します。
そこで、潜水艦たつなみの艦長深町は、日本の領海にて勝手に作戦を遂行する相手に、『好き勝手に他国を攻撃し殺戮するつもりなら同量のリスクを負わねばならんことを相手に教えてやろうじゃねーか、それが“防衛力”の意味だ!!』と言い放ち、魚雷を発射、アメリカ潜水艦を撃沈する。
この言葉は少し強烈だが、個別的自衛権を上手く表している。
(海江田も自衛戦闘について尋ねられ「相手からの攻撃があって初めて成り立つ戦闘」と答えている。)

正直、「個別的自衛権というのでは、何も出来ないじゃないか」という雰囲気があるときに、集団的自衛権肯定の気運が高まるのではないかと思う。

個別的自衛権の範囲内でも、実はできることはかなり大きいということを、この事件は伝えている。東京湾での戦闘を我々が想像することは、とても難しいものの、ありえる話であることは間違いない。

これだけでも、有事に際して個別的自衛権の範囲内で、どれだけの行動が取れるかが分かる。(「専守防衛」は抜きにしてだが・・・・)

さて、話を集団的自衛権に戻すが、ここで大切なことは、日本の自衛隊の意義なのだと思う。純粋に日本だけを守るためにあるなら、無論、個別的自衛権のみで十分なわけである。しかし、国際安全保障への貢献等へも積極的に寄与するというのであれば、個別的自衛権では不足している。
つまりは、国民が自衛隊にどのような期待をもっているのか、担わせるのかなのだろう。

アメリカは未だに「世界の警察」としての軍隊を維持している。(それも債務削減のために予算が削られて、危うくなっているが・・・)

自衛権は、今の国際情勢においては、必要不可欠なものだろう。ここでは、やはり現実主義にならざるを得ない。しかし、集団的自衛権は「不可欠」ではないのではないか。
(ベネット大統領の徹底した現実主義、「アメリカに現実を無視した決定はありえない。」という言葉に代表されるように、政治は現実から語られるべき。)

やまとが示した「撃たれない限り、撃たない。」という姿勢は、日本が取るべき方向性ではないか。先制攻撃をした側の勝利に終わった戦争は、この現代史においては見当たらないように思える。

私個人は、集団的自衛権は必要ないと思う。
ただ、憲法9条を改正し、今の実態に合わせることは必要だろう。
そして、法律によって「自衛権」「自衛戦争」をしっかりと定義付けてあげるべきだと思う。

マスコミに言いたいのは、何のための自衛隊か、何のための集団的自衛権なのかをもっと報道して欲しい。それがないと、結局だれが賛成で誰が反対かという、政局闘争に終始してしまうからだ。この議論は(作品中ではそうなったが)、政権再編にもなりうるほどのものだと思っている。

あと、最後に。
半沢直樹の「人の善意は信じるが、やられたら倍返し!」も個別的自衛権だなと思いました。'`,、('∀`) '`,、


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