May 22, 2011

放蕩する神

ハイサイ!!
久しぶりに本についての投稿です。^^/
最近読んだ本なのですが(5日で読んでしまいました!!)、
ティモシー・ケラーの「『放蕩』する神」<キリスト教信仰の回復をめざして>という本です。
Recently I have finished reading (in five days!!)
“The Prodigal God” by Timothy Keller.
初めに伝えておきたいのですが、この本は私に大きな衝撃を与えました!!このような衝撃はブリット・メリックの”Big God”以来だと思います。
I just want to say at first place, this book rocked me!!! Last time I had this kind of experience was when I read “Big God” by Britt Merrick.
この本は、まるまる一冊をルカ15章にある、一般に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる箇所に焦点を当てています。ここのイエスの教えから「キリスト教の核心に迫るメッセージ」をケラー氏は解き明かしています。
This entire book focuses on Luke15 in which the famous parable so-called “Prodigal son”. By taking us through this story of Jesus, pastor Keller explains the core message of Christianity.
これから幾つかの投稿に分けて、特に私の心に残ったところを紹介したいと思います。(全部やっていたら、著作権とかにも引っかかりかねないので・・・・笑)
I’d like to share some strong lessons I learned from this book in next few posts.
この本の特徴的なところは、このたとえの焦点を「放蕩息子」に絞っていないところです。むしろ、登場する「兄」と「父」により大きな強調をおいています。

「イエスでさえ、放蕩息子のたとえとは呼ばす、『ある人に息子がふたりあった』という出だしで話を始めています。聖書は、弟だけでなく、兄についても、また父親についても同様に語られているのです。・・・・ですから、私はこの話を『失われた二人の息子』と呼ぶほうが妥当だと思うのです。」
このように、ケラー氏は私がこれまで思っていたこのたとえの概念を壊すところから入ったのです、「失われた二人の息子」というタイトルをもって。
Pastor Keller started his writing with breaking of my idea on “Prodigal son”, by re-stating this parable as “the tow lost sons”.
確かに、ケラー氏の述べるように、考えても見ればこれはパリサイ人が取税人や罪人と食事をしているイエスを見てつぶやいているところから始まるのです。そして、「失われた羊」、「失われたコイン」の話のあとにこの「失われた二人の息子」が出てきます。ということは、この話は当時はパリサイ人にも向けられた話でもあったということです。
As pastor Keller writes, this chapter starts with Pharisees and scribes complaining after seeing Jesus dining with tax-collectors and sinners. So we can easily assume that this parable includes those “religious people” as its object.
ケラー氏はこう記します。

「イエスが言っていることはこうです。信仰深い、信仰深くないにかかわらず、どちらのタイプも霊的には失われているということだと。どちらの人生も、その結末は袋小路だと。そして、人間が歴史上あらゆる努力をしてきた、神との関わり方がすべて間違いだったと。」
つまりは、イエスは弟にも兄にも悔い改めを促しているということです。
Pastor Keller explains that whether you live a “religious life” or “unreligious life”, you are lost in spirit. And Jesus is calling both “older bother” and “younger brother” to repentance.
ここまでで、本のイントロとして紹介したいと思います。
次からもうちょっとトピックを絞ったものを扱いたいと思います。
This is my short intro for this book.
Starting next post, I will deal more specific things.
最後に一つ、ケラー氏の教会「リディーマー長老教会」はニューヨークのマンハッタンにあるので、ところどころその特徴が出ています。これは、同じ様な大都市である東京にも少しは当てはまるところはあると思いますが。
その一つが、「なぜ人は、イエスには好感を持つが、教会を敬遠するのか」という問いです。氏は、当時の祭司やささげもののシステムを持たないクリスチャンを「ローマ人はクリスチャンを『無神論者』と呼んだ。」と説明します。そうして、イエスの教えは「宗教家」よりも「宗教に無縁の者」の支持を受けたと説明します。そして、
もし、私たちの教会が、より多くの弟タイプを惹きつけていないとしたら、そこには私たちの予想以上に、兄タイプがあふれている」
と言う言葉で第一章を締めくくっています。
この言葉は、カルバリーの初期を想起させます。パスター・チャックがカルバリー・チャペルを始めた頃に教会にいた人は保守派の人々でした。しかし、そのような教会が惹きつけたのは、グレッグ・ロリーやマイク・マッキントッシュの様なドラッグや性的に荒れた人々でした。一体、「兄タイプ」とはどのような人なのでしょうか?後々、このテーマについては扱いたいと思います。

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