Nov 19, 2011

心にある”溝”




この前、あるテレビ番組で若者のセックス問題についての報道があった。

「インスタント・セックス」という言葉があるらしい。それは、若者が簡単に性行為をもってしまうことらしい。ネットで出会い、そのまま性的な関係を持つ。こういう現実は、高校まではまったく見てこなかった世界だ。でも、大学では周りにあふれている。
インタビューである女性がいってた「関係を保ちたいから。・・・さみしいのかな多分。」。他の女性も「生きる意味がわからない。」という言葉が出てきていた。
私が彼女たちを街で見かけたら、おそらく「あ~、あの人にとって楽しいんだろうな。人生の深いいところに目を留められないのかな」と思ってしまっただろう。
でも、私もそうだが他人が持つ”心の穴”に気付いている人は、少なくはないのだと思う。

番組そのものは「インスタント・セックス」に否定的だったが、ゲストの人は肯定的であった。
彼女の説明は「人は心の穴を埋めるためにいろんなことをする。例えば、パチンコに、お酒に依存する人もいる。それらの一つにセックスというのがあるという、それだけのこと。リスクの問題からすると、経済的な破たんというリスクをもっているパチンコ、健康のリスクをもっているお酒よりも安全であり、正しい知識をもっていれば一つの手段としてはあり。」ということだった。
「ちょっとまてよ!」と言いたかった。というか、言った。(心の中で)
セックス自体を悪とは思わないが、それには神がデザインされたマナーがある。
男性と女性が結び合わせられるのは、コップに入った染色液のようなものだと聞いたことがある。
 「結婚の関係におけるセックスは、二つのコップから、一つのコップに液をまぜ、そしてもう一つのコップでも混ぜる。そうして、二つの色から新しい、きれいな色が出来上がる。
しかし、神の意図から外れた性的な関係は、お互いの色を下に落として混ぜているようなもの。確かに混ざるが、ほんの少ししか混ざらない上に、それを取り戻すことはできない。そうすると、本当にコップに注ぎたい人ができたときに、注げる量が少なくなっている。
 私たちの心もこのように作られている。結婚という関係のなかでのセックスは美しいくひとつになる。しかし、結婚の外のものは、心の一部を捨てているのである。彼らはかつて美しかったのだが、今では何かが変わってしまった。彼らのかつてあった姿が失われている。彼らの心の美しさが色あせてきているのである。」(Ben Courson “Chosen Generation”)


「誰かに必要とされるというのは、人間にとって大事な願望なんです。」とゲストの方は続けて言った。確かに、これは必要な感覚である。いや、「必要」という言葉より「必然的」という方が適切であろう。

 伝道者は言った
 「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道者の書3:11)
(英語の一つの訳では”He has put thoughts of forever”『神は永遠の思いを与えた』と表している。)

 人はみな、心の奥深くに”穴”を抱えている。これは、神が人の心に備え付けた、神へと人を導く感覚なのではないだろうか。人はこの世に生を受けたときから、冒険の道についている。それは、永遠を求める、心の穴を満たすものを求める旅なのだろう。これは、神が私たちは御自身の元へと導かれているという証拠の一つではないだろうか。

 パウロは
 「この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです」
とイエスを表している。これは、イエスが私たちの全てであり、私たちの全てはイエスであるということを言わんとしているのではないだろうか。
 

アウグスティヌスはこう言いました

 「それゆえ、人の心はあなたにあって安らぎを見いだすまでは、満ち足りることがありません。」(Thou hast made us for Thyself, and the heart of man is restless until it finds its rest in Thee. )

 また、パスカルは、人の心の穴をこう表しています。

 because the infinite abyss can only be filled by an infinite and immutable object; in other words, by God Himself.”(「なぜなら、この果てしない溝が、無限のもの、不変のものによってでしか満たされない。言い換えるなら、神、御自身によってである。」(私訳))

 人の奥深くにある心の溝、満たされない思い、不安をもっている。その存在に、今気づいていなくとも、心の深くを探ってみれば、いつかはその”溝”に気づくはずである。
 そして、それを満たしてくれる存在はイエス・キリストの他にいない。

 C.S.ルイスほどこのトピックを的確に、美しく言い表している人はいないだろう。
 「もしわたしが自己の内部に、この世のいかなる経験も満たしえない欲求があるのを自覚しているとするなら、それを最もよく説明してくれるのは、わたしはもう一つの世界のために造られたのだ、という考え方である。地上のいかなる快楽もこの欲求を満足させることができないとしても、だからと言って、この宇宙が食わせ物だという証拠にはならない。おそらくこの世の快楽は、その欲求を満足させるためにあるのではなく、ただそれを喚起せしめ、かつ本物のありかを暗示するために、あるのであろう。(中略) この世の祝福は、本物に対する一種の写し、反響、蜃気楼にすぎないのだから。わたしは自分の心の内にわたしのほんとうの国−それは死んでから見出すのだが−に対する欲求を生かし続けなければならない。」
 

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