Sep 29, 2013

「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」「ロスジェネの逆襲」池井戸潤

今回は3冊まとめてのブックレビューを書きます。

もはや、言わずと知れたドラマ「半沢直樹」の原作です。

因みに、今回放送されたドラマは最初の2冊「オレたちバブル入行組」「オレたち花のバブル組」が原作となっています。
(ニュースを見ていると、第三作もドラマor映画になるようですね。(^^)

まずは、初めの2作品。
ドラマでベーシックな部分を掴んでいたので、割りと簡単に読めました。

そして、ドラマがかなり原作に忠実であったことが分かり、とても驚きました。

大きな違いといえば、半沢の同期が三人衆ではなく、四人衆であること。実家のネジ工場の融資を引き上げたのが、大和田常務ではないということくらいでしょうか。
(あ、最後の場面はかなり異なってましたね。(;・∀・))
後は概して、原作通りでした。

ドラマでもそうでしたが、この作品に惹かれる理由は、主人公半沢の歯に衣着せぬ物言いと、正義を遂行、悪を退治する姿なのではないでしょうか。
私も、そういった部分はすきです。ただ単にハッピーエンド好きと言われればそれまでですが・・・・

しかし、もう一つの魅力は、「サラリーマンって何なんだ」という問題的をする部分ではないでしょうか。
銀行というかなり特殊なセッティングではあるものの、上司と部下、人事と自分の希望、組織と個人という様々なよそが混ざり合いながらも、読者には中々客観視できない部分を見せているように感じます。

無論、私のような社会人二年目の小僧が、「すごい分かるよ!」なんて作品が少々ドラマタイズされていることを差し引いても言えません。
しかし、仕事に対する姿勢を見直す機会になったのかなとは思います。

ただ、私としてはもうちょっと銀行と金融業界を取り上げたのだから、もうちょっと金融ネタがあって勉強できると良いかななんて思いました。

そして、まだドラマ化されていない三作目「ロスジェネの逆襲」です。

これは、ヒットでした。

M&Aが仕組まれたこともあり、金融ネタも入っているだけでなく、前2作品では見えなかったものが見えるようになった作品です。

衝撃的な終わり方だった「花のバブル組」からの続きで、出向先での話になっています。

M&Aに関しては、やはり真山仁のハゲタカシリーズの方が詳細に書かれていて、スキームもとても興味深く勉強になるのですが、M&Aだけではなく、そこに池井戸作品にある、サラリーマンの正義という要素が入っていることが本作品を興味深いものとさせているのだと思います。

半沢が銀行一筋、しかも営業畑でキャリアを積んできたことを考えると、今回のような見事な買収防衛策を思いつくとは中々考えにくいですが、そこはヒーローなのでそうなるものはそうなのだと。

ただ、2点、これら三作品をまとめ挙げるような点に気付きました。

まずは、サラリーマンの生き様です。
これは、人としてではなく、サラリーマンという組織人という限られた世界での話です。
(仕事=人生ではないと個人的には信じていますが、やはり人生の大きな部分を占めるものですから、完全に切り離すことはできないのでしょうけれど。。。)

「人事が恐くてサラリーマンが務まるか」
という半沢直樹の言葉に集約されています。
一体仕事は何のためにやっているものなのか。人事という、ある種ブラックボックス化されている世界。その不明確さはやはり、ある程度怖い物があります。
しかし、人事と仕事を対比させることで、仕事の目的を問いかけているのではないでしょうか。

伊勢島ホテルのときにちらっと見えましたが、今回の証券会社ではアドバイザリーという本当に顧客第一が問われる仕事を与えることにより、半沢の仕事に対する姿勢・理念を上手く抽出して見せてくれた気がします。

その仕事を人事のために利用した登場人物がいたこともあり、半沢の正義感が全面に押し出されていました。
それが、このシリーズを痛快なものにした理由なのでしょう。


第二には、世代間ギャップです。
このシリーズには、「バブル組」と「ロスジェネ(ロスト・ジェネレーションの略)」、そして「団塊の世代」という3つの世代間のギャップが書かれている。
このことは、ロスジェネを読んでやっと気付きました。

バブルを盛り上げるだけ盛り上げ、尻拭いはバブル世代にさせるという、バブル世代がもっている団塊世代への嫌悪感。
バブルというだけで楽な人生を送ってきた反動で、不条理な世の中で生きるハメになったと考えるロスジェネ。

この世代間ギャップ、見えないながらも存在するものがとても上手く書かれている。
確かに、メディアがそうなのかは知らないが、やたら各世代に名前をつけたがるのは、古今東西同じように見える。

因みに、私の世代は「ゆとり世代」と「さとり世代」の過渡期くらいの世代なのでしょう。まあ、名前の通りあって、あまり世代間ギャップを意識して生きていない世代だと思います。

それだけに、今回見せられた世代間ギャップはとても新鮮でした。

ただ、半沢の訴えかけは、「世の中の矛盾や理不尽と戦え」という、そういった世代や組織のせいにして生きて行くのではなく、自分の力でそれは変えていけというものでした。

私ももしかすると、これから社会や会社の不条理・理不尽に直面するのかもしれません。

そのとき、半沢みたいに思えるのか。思いたいものです。

少し脱線しますが、今日ちらっと本やで読んだのですが、「世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか」という本のなかに、ハーバード・ロースクールのトップ学生のインタビューがありました。マッキンゼーを辞め、ロースクール入り人だということです。マッキンゼーでも、ロースクールでも仕事・勉強量は圧倒的な量があると。その中で、平静を保つため、余裕を持てる理由は何かと問われた彼は『信仰心』だと答えました。

クリスチャンとしての信仰心が一番に彼を支えているのだと。
神は全てを見通している。肩書きや、成果、表面的な物で自分の価値が決まるわけではない。それを知っていることが、彼を支えているのだと言っていました。

私も彼のように、信仰によって(勿論、そこから生まれる成果によってでもですが)違いを作り出す人になりたいです。

それが、「どこに行かされるかは知らないが、行ったところでベストを尽くす」という半沢の言葉の私なりの適応です。

神がコントロールを握っているのだという確信と、そこには必ず目的があるという自覚によってクリスチャンとしてサラリーマンを生きたいと改めて思いました。

Sep 24, 2013

「沈黙の艦隊」から考える憲法9条(その1)

最近、集団的自衛権についての議論が大きく取り合えられています。

と同時に、勿論ですが、憲法9条も取り上げられるわけです。(こっちの議論はもっと大きな扱いでいいと思うが、政府の思惑が感じられるよね。過小報道的な)

私は、この日本にとっての戦争だとか、憲法9条、または自衛権になると、一つの漫画がベンチマークというか、自分にとっての議論の出発点になっています。

それは、かわぐちかいじ の 「沈黙の艦隊」という作品です。


ストーリーは抜きにしますが、かなり深い作品です。
(原子力潜水艦「やまと」とその艦長海江田四郎の話です。)

作品全体が、国家とは、安全保障とは、核兵器とはという多様なテーマについて語っています。
ここでは、作品全体のストーリーは省き、私にとって特に印象的なシーンから、徒然と自分の所感を書いていきます。飽きたらごめんなさい。
(一応の説明はここからWikiにお願いしました。笑)

まずは、「専守防衛」とは何かです。
東京湾を目指すやまとに対して、第三艦隊を東京湾に派遣し、日本との接触をアメリカが阻止しようとする場面です。
やまとと独自に友好条約を結びたい日本は、第2護衛艦隊を派遣します。
しかし、アメリカは飽くまでやまと撃沈作戦を続行します。護衛艦隊はアメリカの攻撃にさらされながらも、飽くまで「専守防衛」に徹し、ミサイルを撃ち落としても打ち返さない姿勢を貫き通します。
そこで、潜水艦たつなみの艦長深町は、日本の領海にて勝手に作戦を遂行する相手に、『好き勝手に他国を攻撃し殺戮するつもりなら同量のリスクを負わねばならんことを相手に教えてやろうじゃねーか、それが“防衛力”の意味だ!!』と言い放ち、魚雷を発射、アメリカ潜水艦を撃沈する。
この言葉は少し強烈だが、個別的自衛権を上手く表している。
(海江田も自衛戦闘について尋ねられ「相手からの攻撃があって初めて成り立つ戦闘」と答えている。)

正直、「個別的自衛権というのでは、何も出来ないじゃないか」という雰囲気があるときに、集団的自衛権肯定の気運が高まるのではないかと思う。

個別的自衛権の範囲内でも、実はできることはかなり大きいということを、この事件は伝えている。東京湾での戦闘を我々が想像することは、とても難しいものの、ありえる話であることは間違いない。

これだけでも、有事に際して個別的自衛権の範囲内で、どれだけの行動が取れるかが分かる。(「専守防衛」は抜きにしてだが・・・・)

さて、話を集団的自衛権に戻すが、ここで大切なことは、日本の自衛隊の意義なのだと思う。純粋に日本だけを守るためにあるなら、無論、個別的自衛権のみで十分なわけである。しかし、国際安全保障への貢献等へも積極的に寄与するというのであれば、個別的自衛権では不足している。
つまりは、国民が自衛隊にどのような期待をもっているのか、担わせるのかなのだろう。

アメリカは未だに「世界の警察」としての軍隊を維持している。(それも債務削減のために予算が削られて、危うくなっているが・・・)

自衛権は、今の国際情勢においては、必要不可欠なものだろう。ここでは、やはり現実主義にならざるを得ない。しかし、集団的自衛権は「不可欠」ではないのではないか。
(ベネット大統領の徹底した現実主義、「アメリカに現実を無視した決定はありえない。」という言葉に代表されるように、政治は現実から語られるべき。)

やまとが示した「撃たれない限り、撃たない。」という姿勢は、日本が取るべき方向性ではないか。先制攻撃をした側の勝利に終わった戦争は、この現代史においては見当たらないように思える。

私個人は、集団的自衛権は必要ないと思う。
ただ、憲法9条を改正し、今の実態に合わせることは必要だろう。
そして、法律によって「自衛権」「自衛戦争」をしっかりと定義付けてあげるべきだと思う。

マスコミに言いたいのは、何のための自衛隊か、何のための集団的自衛権なのかをもっと報道して欲しい。それがないと、結局だれが賛成で誰が反対かという、政局闘争に終始してしまうからだ。この議論は(作品中ではそうなったが)、政権再編にもなりうるほどのものだと思っている。

あと、最後に。
半沢直樹の「人の善意は信じるが、やられたら倍返し!」も個別的自衛権だなと思いました。'`,、('∀`) '`,、