Nov 23, 2014

「雑務」をとりあえず引き受けること

久しぶりになりました。
ブログ、投稿してみようと思います。

先日、大学時代に住んでいました寮のOB会報への寄稿の依頼を受けまして、僭越ながら投稿をさせていただきました。(もっとスケールの大きい世界で活躍されている先輩や同期・後輩を差し置いてという気持ちもありましたが、逆に彼らよりは時間をこちらに割けるかなと思い、お受けしました。。。)

しかし、またその寄稿が想像以上に大変。。。。
書きたいアイデアは色々出るのですが、パソコンを打つ手が全然進まない。。。
ワード2枚分くらいの軽い目標でしたが、結局完成させるのに2日も要しました。
(それでも完成版を見て、何とも拙い・・・と自ら思ってしまいました。しかし、時間もなく、あったところで
これ以上良い物を書ける自信もないので提出。無念。)

まあ、理由は明確でした。
それは、最近全く「文章を書く」という作業をしてこなかったことです。

ということで、「とりあえず、何か文章を作る作業をしなくては」と思い立ち、
既存のツールであるブログを利用し、まずは始めたいと思います。

ということで、まずは初めにタイトルについて書いてみます。
お付き合い下さいなんて言いません。暇があれば読んでもいいかも、超絶暇があればFBでもここにでも、コメントいただけると今後の参考になります。


では、今回の問題意識はどこからか。それは、寮の先輩からの寄稿依頼が始まりでした。

実はこの依頼、私は最初、前向きではありませんでした。(しかし、結果として思わぬ課題を発見するという成果を得ることができたわけです。)

話が前後しますが、今回のお題ですが、今日たまたま読んだブログから派生したアイデアです。そして面白いことに、それが最近感じていた別の問題意識とリンクしたのです。

(因みに、そのブログは以下のとおり)
仕事の依頼に対して即座に「無理です!」「出来ません!」と答える人。」
http://soratobutatami.hatenablog.com/entry/2014/10/14/074300

私は職場でもまだまだ最年少、そのため色々な雑務が舞い込んで来ます

最初は何でもいいのでお願いされるだけで嬉しかったのですが(新入社員としてのやる気に満ち溢れていたころですね。)、2年目にもなると自分の実際の業務とその他のものの境界線も見て来て少し面倒に感じるときもあるようになりました。

しかし、他に回せる人もおらず、断れなかったので、「一応」その類の仕事を受け続けていました。
そうしていると、段々と気付くことが出て来たのです。

細々とした仕事でも、いろんな人に周知・了承・お願い等、人とのやり取りをまとめるかということを勉強できますし、小さな仕事でも色々と溜まりますとマルチタスクをこなす方法を学ぶことができることに気付きました。

そうすると、「実はこれ、私の業務にはさっぱり関係ないけど、長いスパンでみると何らかのメリットがあるのでは?」と考えるようになりました。

ある人は、自分の仕事に集中したいからであったり、もしかしたら単に面倒だからと断ったりするのでしょうが、実はそれは勿体無いことなのではないでしょうか

特に私の会社のように、中々若手のうちには大きな責任の仕事が回ってこない場合、
経験を積むには自分からの仕事を見つけなくてはならないと思います。

「それは、飽くまで自分の業務範囲内の仕事を見つけるべきだろう」という反論があるでしょうが、本当にそうなのでしょうか?

確かに、自分の業務と直接関わりのある仕事で経験を積めるなら、それに越したことはないでしょう。
しかし、それが難しい場合には、他のフィールドで経験値を積む場を求めなくてはならない。

これはあくまで、私のような立場にいる人の話ではあると思いますが、
色々な(仕事とは呼べないような)雑務を受け持ってみると、以下のことを学べているように感じています。

1.「どうでもいい仕事」と「取組むべき仕事」の見分けが付く。
 全ての仕事に全力投球できればいいのですが、残念時間には限りがあります。
 色々と頼みを受けていると、その中で否が応でも優先順位を付けていないと回りません。どれが「どうでもいい」ものだらかということで、適当に片付けて、どれが「しっかりと」根回しや準備が必要なものか見分けられるようになることは、将来本当に業務上の責任を負い、マルチタスクで仕事をこなさないといけない立場になったときに役立つのではと思います。

2.人に顔を覚えてもらえる。
 やってくるのが色んな雑務とうことは、いろいろな人やりたがらないこと、そしていろんな人と(どんなに軽いとはいえ)関係が持てるようになるとうことです。
 そこで簡単でもやり取りができるということは、人脈を広げることにも繋がりますし、「自分は任されれば、やり遂げられるんだぞ」というアピールのチャンスにもなります。
 若手のうちに顔を覚えてもらうことは、今後役に立つはずです。

3.仕事へのスキルアップに繋がる場合も
 最近、新たなコーヒーメーカー導入の話が職場でありました。その時、現行の
コストと、新規でコーヒーメーカーを入れた場合の費用比較をすると良いのではというアドバイスを受けました。そこで、費用比較のエクセルを作成したのですが、その過程で費用試算の簡単な考え方・比較資料の作成方法・見やすいエクセル表などを学ぶことができました。
 その後、本来の業務でも比較表を作ることが必要となり、早速学んだことを利用できました。このように思わぬスキルを身につけることだってあります。


そういうことで、「雑務」と聞くと「雑用」「下っ端」などというネガティブな印象を持ってしまうことも、実は考え方次第ではポジティブなものになるのではないでしょうか。
引き受けた結果、何が起こるか分からないのが雑務なのでは。
それなら、若いうちに「とりあえず」引い受けてみることは大切なのでは?


※次回は、「取り敢えず引き受けた後」についてちょっと書いてみたいです。

May 11, 2014

カルバリー・チャペル・ジャパン・カンファレンス2014(CCJC2014)


久しぶりの投稿ですね。。。。

先日のゴールデンウィークに、毎年行われるカルバリー・チャペルの日本カンファレンスに参加してきました。
かれこれ、数えてみるとなんと8回目の参加なのですが、大好きなので毎年参加しています。

そして、気づいてみると、写真を殆ど撮っていない。。。(この写真も他の人のを拝借)
なんとも残念なのですが、写真を撮るのを忘れるくらい楽しかったということでしょう。
そうします。

さて、早速カンファレンスの内容ですが、6セッション+1ワークショップという内容でした。
残念ながら、第2セッションとワークショップは参加できなかったのですが、以下簡単ですが、個人的に心に残った部分を、忘れてしまわないうちにまとめたいと思います。

セッション1「信仰によって成長」
「信仰の殿堂」とも呼ばれるヘブル11章がメインのテキストでした。
信仰は目に見えないものを確信させるというところです。
「主に信頼するときに何かが起こる」ということと「信じることは行動を生み出し、状況を変える」ということばが響きました。
私の状況がああだこうだ言う前に、まずは主に信頼することからなのだと。
逆にいうならば、変わらないのは、信頼していないところがあるのではないかということです。
日々の生活の一つ一つの行動・決断が信仰から生まれるものでありたいと思います。

セッション3「聖霊によって成長する」
ヨハネ14章がメインのテキストでした。
「キリストの復活は私たちにも日々起こること」が心に残っています。
『自分の欲、自己中を十字架に付ける』→『キリストから復活の力を受け取る』
ということを日々繰り返していくのだと。
そして、「ふわふわクリスチャン」(山東さんの表現ですが)になっていくこと。
う〜ん、何が「ふわふわ」だったのか曖昧ですが(さすがにノートに取っていなかった・・)、「聖霊に敏感でいること」というのは覚えています。
この聖霊へ導きへの感度を挙げていくことが、ここの成長なのだと受け取りました。
そして、導かれているからといっていつも(人の目から見て)成功するのではないと。
ある意味、神様の働きは不思議で、人には理解出来ない部分があります。それ故、困難に導かれる場合も大いにあるわけです。何も起こらない場合、失敗する場合ももしかしたらあるわけです。それでも、進み続けるのがクリスチャンライフなのかと感じました。

セッション4「奉仕によって成長する」
1ペテロ4章がメインのテキストでした。
このセッションが個人的には一番語られたところでした。
『この言葉が!!』とか『神様がこの時に!!』とかいう経験なのでもないし、前日の積み重ねがあったからなのは間違えないのですが、ここでヒットが出たという感じでしょうか。野球で言うと、前日に塁を埋めて、このセッションでタイムリーが出たということ。
「なぜ仕えるのか」→それは、キリストがまず愛してくれたから。キリストの愛と恵みを知ったから。
「誰に仕えるのか」→人に仕える前に、神に仕える。そして、祈りをとおして、神にまず目を向ける事の大切さを知る。さらに、キリストに心を満たしてもらわないと次へは勧めない。
「人に仕える」→無論、動機は仕えるのではなく、人を愛するというところ。
「どのように仕える」→与えられた、様々な賜物を用いて。各々にユニークな賜物が与えられている。
そして、この最後に「(奉仕を通して)教会が建て上げられるとき、神様が栄光を受ける」というところにつながっていきました。
個人的に、仕えるためにはまず「愛」がないと人には本当に仕えれないということが改めて示されました。自分に愛が欠けていること、そしてどれだけキリストの愛を必要としているのかも。
また、奉仕するには何度も何度もキリストのもとに帰ってこないといけないのだなと。
奉仕の動機も、モデルも、結末もイエス・キリストなのですから。また、奉仕し続けるにもキリストの力なしには、どこかでエンジン切れしてしまうし。。。
奉仕の中心にどれだけ福音を据えることが出来るのか。これ如何で、奉仕のベクトル、持続性、インパクトが大きく変わるのだと感じました。

セッション5「愛によって成長する」
1ヨハネ4章がメインのテキストでした。
「まずは教会内の愛」、このポイントに尽きます。
規模が小さく、教会サイズも小さい日本の教会は、どうしても伝道が必要だと思われがちだし、思ってしまいます。無論、これは何も間違ってはいません。
しかし、そこに傾倒するあまり、教会内の愛が弱まってしまう可能性もある。
チャック・スミスがカルバリー・チャペルを始めたのも、この辺りの気付きが大きかったはずです。信徒を伝道に狩りだす教会ではなく、信徒が愛され養われている教会を目指す
。これが彼のミニストリーの出発地点となっていました。
「世の中の人を愛す」前にまず、「神の家族を愛する」これができなければ、教会が世の中でインパクトと影響力を持つことはできないのだなと。
私自身、教会内にも接しにくかったり、話すことに消極的になってしまう人がいます。
「まずは私がキリストの愛をもって神の家族を愛することから始めないと!」と気付かされました。「愛する決断を自分からしていく」これに尽きます。

セッション6「希望によって成長する」
ローマ6章がメインのテキストでした。
キリストの再臨がある。このメッセージが普遍的に教えいてくれるのは、「常に準備しておく」ことです。
そして、そのために、この希望をもっと理解することで、「備え」への意識がもっと強まるのだと。
私も、「預言を勉強しても、結局キリストは来られるのだから。日々、キリストのために生きていれば問題ないじゃん」と思いがちです。(この意味自体は間違っていない部分もあるのですが)
それではなく、日々キリストのために生きるために、この希望とその意味を理解することが大切なのだと教えられました。


以上が各セッションからです。

今回はかなり自分のダメさを見せつけられましたが、それ以上に励まされました。
日本各地でカルバリーのミニストリーが力強く進んでいることだったり、私の世代もますます大きく用いられていることだったり、次の世代がどんどん信仰に熱くなっていることだったりが、この目で見て実際に感じることができました。
そして、自分がこの働きに招かれているし、参加している。彼らと一緒にこの喜びをもっと分かち合える。このことを知ることができるだけで、私の心は大きな興奮で満たされました。

また、来年が楽しみです。

Soli Deo Gloria




Feb 11, 2014

「君に友だちはいらない」(瀧本哲史)


さて、最近このブログがもっぱら本についてばかりなのですが、今回もまだ続きます。

今回読んだのは、「君に友だちいらない」という瀧本哲史氏による本です。

まず、何故この本を選んだのか。

ズバリ、タイトルです!!!

引きこもり、根暗、コミ障、非社交的、、、、な私にこのタイトルが悲痛なくらいに響いてきました。
「え、それができれば、オレもこの世界でやってけるんじゃね?」なんてね。

しかし、そんな考えも序章で吹き飛ばされました。

最初の導入で本書の趣旨を説明している(これがある本はとても読みやすいので、助かる)のですが、そこで「今後グローバル化が進む社会においては、人/人材がコモディティ化してしまうことが予想される。そして、そのような危機に直面するとき、必要なのは単なる『友だち』ではなく、『仲間』なのだ」ということを述べています。

いやはや、早速希望を失う波乱の序幕でしたが、本章ではその「仲間」とは何か、どのように作るか、どのようにそれを活用していくのかということを説明しています。
その本章も確かに(自己中な)期待とは異なるものでしたが、中々為になるものだったかなという感想です。

そこで、例のごとく、印象的な部分を幾つか紹介していきます。

1.ルフィの幻影
「『ワンピース』で描かれる仲間は、ファンタジーの世界で生きる住人にとっては理想的な存在なのかもしれないが、現実にはありえない“虚像”なのだ。現実に生きるわれわれの前途は、『本物の資本主義』が猛威を振るい日一日と過酷になているというのに。」

これは、皮肉れたいいかなのように捉えられることができるかななと思いますが、リアルな世界ではワンピースはやってけないのは誰の目にも明らかなのかなとも思います。
さらにいうと、この「ワンピース」の解釈が「仲間とずっとやっていく」「ワンピースを得るまでは、誰も失わない」「どんな過酷な目にあっても決して死なないイモータルな存在」という前提にあるのですが、それが少しズレているかなと。

よくよく考えると、ワンピースを目指しているのは実はルフィだけで、各人は別の目的をもって参加しています。仮定の話ですが、もしもゾロが鷹の目ミホークを倒したら、果たしてルフィと行動を共にするでしょうか?疑問などないとは言い切れません。

ただ、ワンピースを一般に話すときにはこの「イモータルな仲間」がやたらフォーカスされる気がします。
これは、ある意味終身雇用の日本の企業に近いのかもしれません。
会社というイモータルな船に乗り込み、どんなことがあっても離れず、ずっといる仲間と困難を乗り越えていくからこそ、最後に何かが得られるという考えが重なる気がします。

人との関わりの希薄化が問題視されている最近だからこそ、この「仲間」意識がなにか羨望のような感覚をもって見られているのかなと思います。


2.チームアプローチ
「ダメなチーム(ありがちなチーム)では役職や年次で選抜されるが、よいチームはあくまで『何が出来るか』でメンバーが決まる。」

(;´∀`)…痛いなぁ
と思うばかりでした。

一体、仕事の先にあるのが何なのかということを見続けることがどれだけ難しいか、それを実感している最近だからこそ、この言葉が胸に突き刺さるように響きました。
特に何か、革命的なアイデアでもないし、ある意味普通なのですが、それでもです。

果たして自分が選ばれるのかと自問すると、自信がなくなるのが現実です。

「採用基準」でも類似したことがあったのですが、本当に人材としてマーケットに売り込めるようになるには、どのように・どのような仕事をすべきなのかをもっと考えなくてはならないと思います。

今自分がいる組織は少なからず、ミッション・メンバー選定・コミットメントを考えるとこの「ありがちなチーム」に当てはまるように感じます。

さあ、どうしたものかと悩むのですが。。。。。


3.「ぶちあげる」ことの持つ力
「最初に掲げるビジョンは大きれば大きいほどよい。と同時に、それは多くの人が共感できる普天的なものでなければならない。そのビジョンを常にチームの全員が念頭に置いて行動しなければならないし、簡単に変えるのはもってのほかだ。」

やはり、リーダーは夢を語っていなくてはならないのでしょう。
富士フィルムの古森氏が掲げた「第二の創業」を思い出しました。

それまで、コダックと画像フィルムの分野で競い・勝利してきた彼らが、化学や素材の分野に方向転換していくことは難しかったのではないでしょうか。
無論、それは単なる夢ではなく、ロジックの通ったものでしたから、浸透していったのでしょう。

ただ、何か組織を買えるときに「第二の創業」、「スマータープラネット」、「爆速」という何かのキャッチフレーズがあると、それは末端まで伝わります。
ただ、下にいけば行くほど、経営的なロジックが通用しなくなります。
しかし、そのビジョンは「普遍的なもの」でなけばならないのは、それが現場でも通用するからなのではないでしょうか。

「一体それを私はどう体現できるのか」、「自分がそのビジョンにどのように資することができるのか」ということを考えると、現場の活性化にもなり、組織にダイナミクスが生まれるのかなと。

ただ「我慢の年」や「収支が厳しいから、最大限の効率化を」「攻めのとき」などという、ビジョンというか先が見えないものをぶちあげられても、遠くから見ていると散っていく花火と何も変わりません。

これは、「巨象も踊る」というルイス・ガートナー元IBM社長の本を読んだ時から思うのですが、良いトップダウンなしには、ボトムアップは起きないのではないでしょうか。

日本の経営者にももっと大きなビジョンをぶちあげてもらいたいです。



以前の「採用基準」からのリンク出来ることも多くあった本でした。

そろそろガチで、今後のキャリアのありかたを考えなくてはいかんなぁ。。。。。










Jan 29, 2014

ブックレビュー:「原発ホワイトアウト」(若杉冽)


いやはや、とんでもない作品がでてきたものです。「原発ホワイトアウト」

ぶっちゃけ、ビビりました。

あまりにも身近なので、内容の詳細には触れず、感想をつらつらとタイプします。。。。

先の東日本大震災から、被災地の復興は少しづつ進んでいるようですが(勿論、福島等遅々として決まらないものも多いと思いますが)、中々表立って取り上げられないのが「電力システム改革」です。

(いちおう、こんな形で報告書は出ています。)

テレビでも取り上げられていました。

著者が現役キャリア官僚だというからとても興味深い。
そして、読んでいる限り、かなり内部にいる人の告発のように思える。

電力システムというのは、批判の対象にはなれど、中々取り上げられない。
私が着目したいのは、このシステムよりも、このシステム周辺に住む人々である。

「原価総括方式」を、単価の決め方がある番組では「電力モンスター・システム」と呼んでいた。ただ、「原価総括方式」というのは、電気事業に係る原価を全てひっくるめた上で、「一定水準の利益」を確保できる単価・価格を設定すること。
とまあ、考えて見ればこんなこと、どの会社もやっていること。

製品の価格は、それにかかった研究開発費・原材料費・輸送費・販促費・人件費等々を加味して決まるわけです。それと同じように、電気も配電費・発電費・営業費等を基に単価の算定を行います。

私が本作の中で注目したものは、その収益方式から生まれる「トレント」に群がる人がいるということです。これが先述した「一定水準の利益」なのですが。(この事業報酬を業界ではベータ値と呼んで、システムではかなり厳しく評価・監視されています。)

ここで注目すべきは、「日本電力連盟」とモデルばればれの組織です。
そこの常務理事のロビー活動というか、政治活動が生々しい。
落選議員への計らいをもって、将来の御用議員を確保する。
そして、監督省庁の役人への便宜、出身会社への指示等々によって進める原発再稼働。
もう、これは政治組織かって言うほどの力があるんじゃないでしょうか。

その上で、各電力には例えば関東電力には「東栄会」なるものを組織させ、会社としてではなく、その財団組織を通すことで、関係会社・協力会社まで巻き込んだ資金力をバックに、政治活動ができるようになっている。

そして、これらの組織の目的は、既得権益の確保。

本当にそれが事実なら由々しきことです。

原発再稼働については、エネルギー問題として思うところはあります。
ただ、このシステム改革と既得権益については、完全におかしい。

そもそも、電力ビジネスはその公益性の高さ故に地域独占が認められてきたわけです。また、それだけではなく、過去に電力事業へ投資してきたのが官ではなく、民間によってなされていたこともあります。
なので、「地域独占は間違っている」という議論は稚拙で論外。

問題の確信は、国民が電力事業をどう見るかにかかっていると思います。

これを通信事業(電話通信が分かりやすい)と同列で考えるならば、独占状態は誤りです。そして、しっかりと自由化を推進すべきでしょう。

しかし、ライフラインとして見るなら話は簡単ではありません。

税金で賄われているなら、問題なく公共事業なのですが、実際はそうではなく民間のビジネスとして確立されている。
この民間が担う公共ビジネスは、非常に繊細な制度設計を要するのです。事実、いまでも電力システム改革の制度設計ワーキンググループにおいて、今度の進め方が議論されています。

しかし、この制度設計が悪用されているというのが、著者の主張ではないでしょうか。

ビジネスを担うものとして忘れてはいけないのが、それが誰のためかというもの。
これは電力ビジネスに限ったことではありません。

先の金融危機は「クライアント第一」と標榜していた投資銀行がいつの間にか、自社の利益のためにクライアントを食っていたことを明らかにしました。

エンロンもエネルギー事業以外の投資によって利益をあげようとしたばかりに、失敗。

健全なビジネスは、本業を地道に守りぬくこと。
そして、その本業とは何かを見極め続けることにあるのではないでしょうか。

この電力ビジネスが生み出す「トレント」を本作は一種の麻薬のようなものと表現しています。システムに組み込まれると、もう抜け出せないのです。
そこには、あまりに多くの人が入っている。まさに、「大きすぎて潰せない」ものの一つなのかもしれないです。

しかし、霞ヶ関の中にも古賀茂明を良識派として慕う「隠れキリシタン」がいると著者が言うように、電力業界内にも本気でお客様のことを考え、働いている人は多くいると思う。
その力がいま必要なのかもしれません。
一体何が、国民、お客さまのためなのか。それを追求していく先に、健全な市場が形成され、そこから健全なビジネスモデルが生まれると思うのです。

本作品を読んで電力業界を断罪できることは簡単でしょう。しかし、本質的な問題をこれを通して見ることができればなと思います。