Jul 19, 2011

人生の生き方

こんなにも間が空いてしまい、申し訳ないです!!

学校、アルバイトで忙しく、ブログをアップする時間が取れませんでした。
といよりも、取ってなかったというのが正しいかな。
なので、今は試験が近いですが、敢えて、時間をとって投稿します。

”「放蕩」する神”の続きです。
ケラー氏は、続いて人の人生のあり方について説明します。
「二人の息子=二つの生き方」です。
この二人の兄弟の話を通してイエスが表そうとしたのは、人が基本的に幸せや満足をどのように得ようとしているか、でした。
 人は皆、それぞれの生き方を持っています。そして、満たされたいと思っています。
ある人にとって自分を満たすものが、他の人にとっては真逆になることもありますが、結局は皆自分を何かで満たしたいと考えていることは共通しています。

「失われた二人の息子」は異なった生き方で、満たしを求めました。
兄は正しいことをすることで、弟は快楽・自由を得ることででした。
しかし、二人とも父親を拒絶しました。
弟は初めの段階で、父親の財産を持って出ていきました。
兄は弟が帰った後、父親に入るように言われた祝宴を拒否しました。
この二人の父親の拒絶は、彼らの生き方ゆえでした。

弟は快楽を得るために、父親のもとを離れました。
兄は、自分が正しいことをしているが故に、父の招きを拒みました。自分が正しいことをしているというプライドが壁を作っていたのです。

このことは、人が持つ罪のコアを表しています。
それは、人間の自己中心性です。
罪とは、単にルールを違反しただけにとどまらないからです。それは、自分自身を救い主、支配者、裁判官として、神の立場に置くことによるからです。二人の息子が、父親の権威をそれぞれのものに置き換えたように、です。
私たちは自分の人生は自分でコントロールしたい、善悪は自分が決めたい、自分にとって何が最善かは自分が一番知っていると思いたいのです。
私たちが自分自身の支配者、救い主になる方法は二つあります。一つはすべての道徳的基準を無視し、自分だけのコースを歩むこと、そしてもう一つは、すべての道徳的基準を守り、ただただ、品行方正な道に徹することを通してです。
私は何かしらの理由をつけて、この問題を避けていたことに気付かされました。
どれだけ、自分が兄の立場に近いかが怖いくらいに迫ってきました。
これまで、荒れた生活をしている人ほどイエスが必要だと思ってきました。しかし、そんな人も、逆に品行方正な人も、同じくらいにキリストを必要としているのだと教えられました。

最後にケラー氏が紹介した、有名なG.K.チェスタトンの話で今回は締めます。

ある新聞が、公開質問状をだしたことがありました。「この世界の何がまちがっているのだろう。」カトリック作家のG.K.チェスタトンは、このような簡潔な返信を出したことで有名です。「記者さま、私です。G.K.チェスタトン」。これこそ、イエスのメッセージの的を射た人の姿です。

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