May 19, 2013

藁の楯を見てきた・・・・


先日、いつものようにふらっと映画を見たくなったので、こちらの映画大沢たかお・松嶋菜々子主演の「藁の楯」という映画を観てきました。

若干、最近見たばかりのSP(岡田准一のやつ)に似てるんだろうな、とも思いながら、今ある映画でこれくらいしか興味をそそらなかったため、こちらにしました。

まず、映画としての感想から。
日本映画らしく、「大袈裟でアンリアル」なところはあまり抜けだせてませんでした。
しかし、単なるハッピーエンドで終わらせないところは、力強さを感じました。さらに言いますと、アンリアルと言いながらも、警察の「税金の無駄遣い」という映画中で表現があったからこそ、今回のはあある程度リアリスティックな仕上がりになっていたとも感じてます。
キャストでは、大沢たかおの演技はやはり鉄板でしたね。観ていて、引きこまれていく力がありました。松嶋菜々子は若干、お年を召された感が否めません。。。。。
藤原竜也の「清丸」役、正直怖かったです。彼は、このような「狂った」というか、ぶっとんだ様な役を演じることが多いと思うのですが、今回も観ていて怖くなるような演技でした。

そして、個人的な感想です。
映画の中で繰り返し使われた言葉、そして本作のテーマ(なのではと思っていますが)でもある言葉がとても強く胸に刺さりました。

「こんな奴、守る価値あるのか?」

清丸国秀という少女暴行殺害犯の護送という、本来なら用心警護に当たるはずの主人公、銘苅警部補と白石巡査部長。しかし、この男に懸けられた10億円というお金が人々を狂気の沙汰へと引きこんでいく。
護送チームの若い刑事の神箸が撃たれ、死ぬ間際に「あんな奴、ほんとうに守る価値あるのか?」と言い残し息を引き取りました。正義に燃えていた熱い人物でした。
そんな中でも、彼を命がけで守ろうとする二人。裁判員裁判にかけられればほぼ死刑が確定のこの男を何で守る必要があるのか、それは「守れと言われた人を守るのが仕事」だと割り切ろうとしている二人も、ずっと自問していることであった。
私も作品に引き込まれる過程で、「手を抜いてしまえば簡単に他人の手によって殺される。そして、それによって他の人の狂気を止め、一人でも多くの人が助かるのならその方が良いのではないか?」と思いました。
まるで人が苦しむのを楽しみにしている、人の命を何とも思っていない清丸の態度を観ていると怒りさえも覚えました。

しかし、それを観終わり、少し考えました。すると、一つのことが頭に浮かびました。

「イエスの十字架も、そうじゃないのか?」

最近読んでいる本が、チャールズ・スポルジョンの「ただ恵みによって」という本です。
彼はこの本の中で、キリストの十字架の意味を、驚きをもってこのように述べています。

「私は、自分が一片の無価値な存在、背徳のかたまり、罪の山であり、神の全能の愛の前から全くかけ離れていることを知っています。しかし、キリスト・イエスを信じる信仰によって私は義とされ、ちょうど全く正しかった者のように扱われ、そのうえ神の相続人、キリストとともに相続人とされているのです。・・・(中略)・・・私は、自然の性質からすると最も罪深い者の一人であることに違いないのです。まるっきり値打ちがない私が、価値のあった者のように扱われるのです。」
清丸という男を自分に重ねることができると思いました。
彼ほど、道徳的に腐敗していないし、人を傷つけていないですが、それでも神の前では自分の道徳や正しさはこれっぽちも通用しないと。
そして、銘苅と白石が問いかけた問題は、十字架にも言えることではないでしょうか。
「私にそんな価値はあるのか?」と。

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を明らかにしておられます。」ローマ5:7−8
この意味の深さを、まだ私が理解しておらず、軽々しく扱っていたと痛感しました。
自分の罪深さをまだまだ理解できていない自分を知りました。もちろん、知りたいとは思いません(感覚的にです)。ですが、神の完璧さに触れるともっとそれが明らかになるのだろうと思わされました。
清丸に対するイラつきや怒りは、彼自身の悪行ではなく、そんな彼を命を賭し、傷つきながら守る銘苅たちの姿の方が大きなトリガーとなっているのだと感じました。
こんな人間のために、ぼろぼろになっていく有望な彼らを見ていられなかったのです。

もちろん、銘苅とイエスを完全に重ねることはできませんし、それは失礼なことです。
しかし、意味においては、似ているのかと。

イエスの正しさ、完璧さを見ると、自分のために死んだということに対し、ある意味「なぜ?」という思いと、驚嘆の念を覚えざるを得ないのです。

まだ、スポルジョンの本は前半ですが、この「不敬虔な者が義とされる」ということ、もっともっと深く知りたいと思わせてくれる映画でした。

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