今日は、CC沖縄の男性の学び会に久しぶりに参加してきました。
聖書を、ティーチングではなく、リーダーと一緒にみんなで読み解いていくという形式での学びでした。
今は、使徒行伝を学んでいて、今日は第三章後半でした。
金曜日までの疲れ、なでしこ戦を見てしまったこともあり、若干うとうとしていた部分もありましたが、一箇所とても心に残りました。
それは、
19節「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
です。
特に、「ぬぐい去る」という表現が私の注意を引きました。
この表現には、キリストのなさった贖いにおいて、見落としてしまいがちな側面を気づかせてくれました。
「ぬぐう」というと、雑巾などで、汚いものをキレイにするというイメージがあります。
雑巾で汚れをぬぐうように、キリストも私の汚い罪をぬぐってくれたのだと。
また、その作業はそんなに楽しいものではありません。なぜか、疲れるし、自分の手が汚くなるし、他の人に頼めるなら頼みたいという思いもあるからです。(私の場合ですが・・)
そのように、キリストの贖いの働きは、とても肉体的であり(「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」ルカ22:44)、とても汚く(つばをかけられ、鞭打たれ・・・)、それでおいて、他には道のないもの(杯をとりのけて欲しいという祈り)でした。
まさに、「ぬぐい去る」という人間的かつ私たちのためであり、神聖な働きが贖いだったのでしょう。
安い恵みという観念をボンホッファーが警告していたことを思い出しました。しかし、神の恵みは無償で提供される裏で、大きな犠牲が伴っているのだと、改めて教えられました。
それにどう応答するかは、自分の心でしっかりと捉えなければならない課題だと思いました。
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