Aug 12, 2012

超越性と内在性

また、「Worship Matters」よりシェアします。

「超越性(transcendence)は、被造物から独立しており、それに優っていることを意味する。私たちが神を礼拝するとき、このことを認識しなければならない。神は主権を持つ王、限りなく荘厳で栄光に満ちている。(中略)神は神であり、私たちとは違う。これは、神を礼拝するに当たり、最も助けとなる態度の一つである。」(私訳)

私の様な若い世代には、賛美歌などのお固いワーシップのスタイルは、ちょっと苦手感を覚えると思う。むしろ、カジュアルなスタイルを好む。わたし自身、そのタイプに属するだと思います。(もちろん、賛美歌は好きだし、そのような伝統的なスタイルは素晴らしいとも思う。)

変に形に固執せずに、神への愛を自由に歌い、表現することは、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックの生み出した、一つの大きな産物だと思う。
しかし、そのカジュアルさに潜む危険性というのは、上に引用したコウフリン(Kauflin)が書いた神の超越性を過小評価、見逃してしまうことではないでしょうか。
神の偉大さ、その完璧な性質をさらに理解するとき、半端な態度で近づくという思いは消え去る。賛美にしても、カジュアルは歓迎することだが、ルースな、何か抜けた感じのある賛美になっては決していけないのではないだろうか。

さらに、もう一点。
神の内在性はクリスチャンに、新しく過激な意味をもって私たちを興奮させる。神はわたしたちとともにいるだけでなく、私たちの中に住まうのである。
神は、私たちと常にともにいて、中にいてくれる。このことは、なんと大きな安らぎをあたえるだろう。
そして、イエスは私たちを「友」と呼んだ。(ヨハネ15:14−15)
しかし、D.A.カーソン(D.A.Carson)はこれについて、よい指摘をしています。
「イエス、神は聖書の中で一度も私たちの友として記述されていない。アブラハムは神の友だったが、その逆が述べられたことは一度もない。無論、ある意味において、イエスは貧しい罪人にとっての一番の友だちだろう。しかしながら、これは聖書の用語ではない。それは、聖書が、神やイエスが我々のレベルにあるような安い親密さのようなものに自身を引き下げるのには、抵抗感を覚えているようである。」
神が私たちではないこと。それでも、私たちとともにいてくれるという親近感は、正しいバランスをもって理解しなくてはならないのだと思います。
ジョン・パイパー(John Pipier)はこれを「厳粛さ(Gravity)と喜び(Gladness)」と表現しています。

聖書を生べば学ぶほど、このバランスが賛美において身についてくるのではないでしょうか。また、学びにおいてのバランスの大切さも教えられました。

Aug 4, 2012

「ぬぐい去る」働き

今日は、CC沖縄の男性の学び会に久しぶりに参加してきました。

聖書を、ティーチングではなく、リーダーと一緒にみんなで読み解いていくという形式での学びでした。
今は、使徒行伝を学んでいて、今日は第三章後半でした。

金曜日までの疲れ、なでしこ戦を見てしまったこともあり、若干うとうとしていた部分もありましたが、一箇所とても心に残りました。
それは、

19節「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」

です。
特に、「ぬぐい去る」という表現が私の注意を引きました。
この表現には、キリストのなさった贖いにおいて、見落としてしまいがちな側面を気づかせてくれました。
「ぬぐう」というと、雑巾などで、汚いものをキレイにするというイメージがあります。
雑巾で汚れをぬぐうように、キリストも私の汚い罪をぬぐってくれたのだと。

また、その作業はそんなに楽しいものではありません。なぜか、疲れるし、自分の手が汚くなるし、他の人に頼めるなら頼みたいという思いもあるからです。(私の場合ですが・・)
そのように、キリストの贖いの働きは、とても肉体的であり(「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」ルカ22:44)、とても汚く(つばをかけられ、鞭打たれ・・・)、それでおいて、他には道のないもの(杯をとりのけて欲しいという祈り)でした。

まさに、「ぬぐい去る」という人間的かつ私たちのためであり、神聖な働きが贖いだったのでしょう。

安い恵みという観念をボンホッファーが警告していたことを思い出しました。しかし、神の恵みは無償で提供される裏で、大きな犠牲が伴っているのだと、改めて教えられました。

それにどう応答するかは、自分の心でしっかりと捉えなければならない課題だと思いました。